好天への願いも空しく，ついにアンカレッジに戻る．カトマイの森と湖が雨にけぶって遠ざかる．アンカレッジも雨，雨，雨．

カトマイの天気は人の期待を裏切るのがまことにうまい．明け方から雨である．夜が白み出した頃，テントに最初の雨粒がポツリと音を立てて当たったときにはもうなんとも言えず悲しい気分がした．ポツリポツリという音は数を増し，やがて森全体がざーっと言う雨の音に浸された．昨夜のあの青空は何だったのだろう．初めてではなかったが，雨に打たれながらテントを撤収するのは惨めなものである．U氏とH君に別れを告げる．
「そのうちきっと晴れますよ．」
「どうだか．デナリ国立公園が良ければそれでいいよ．」
たしかこんな会話をして別れたような気がするのだが，今となっては定かでない．食料が減って軽くなったバックパックをかついで，オフィスで飛行機の席順を待つ．昨日やってきたMichiganのおっさんは友人と連れだって川へサーモンを釣りに出かけた．二人ともチェストウェーダーをはいていて，かなり本格的なフライフィッシャーのようである．そういえば，昨晩U氏がおっさんに頼んでいた．
		Sockeye Salmonから針を外す．アラスカではサケは1本針のフライでしか釣ることができない．釣ることができる数にも制限がある．厳しい規制が豊かな自然を保証してくれる．1980年に撮影．
「もしもあんたがサーモンを釣ったら，これくらいでいいから分けてくれ．ステーキにして食いたいから．」
「そんなの簡単さ，そんな切身でなくて，丸ごと一匹くれてやるよ．」
「いや，そいつは大きすぎるし，さばくのが面倒だ．これくらいのステーキにちょうどいい切身をくれ．」
「まあまかせておけって．」
そんな会話を思い出しながら，オフィスになっているログキャビンの軒先で雨をしのぎながら飛行機の順番をじっと待った．時が過ぎ順番が回ってきて，僕たちは逃げるようにして飛行機に乗り込んだ．もうこうなったら先に逃げ出した方が勝ちである．こんな天気につきあうのはまっぴらごめんだ．乗り込んでパイロットを見ると来たときと同じパイロットである．エンジンが始動し，飛行機は爆音をあげ，白い波をけたてて水面を切り裂きながら滑走した後，魔法のようにすっと空中に浮かんで水との別れを告げた．大気は不透明で湿地ツンドラの緑の絨毯もぼんやりとしか見ることができない．キングサーモンでジェット機に乗り換え，アンカレッジへ向かう．どこへいっても鉛色の空から雨が尽きることなく落ちてくる．アンカレッジに着くと雨足がいっそう強くなったようで，当分青空は望めそうにない感じの天気である．旧約聖書の洪水伝説の時はどれくらいの雨がどれくらい降り続いたのだろうかなどと考えたくなるくらいの悪天だった．
レンタカーを借りることにはしていなかったので，今や常宿となったモーテルのPuffin Innに電話して車で迎えにきてもらう．チェックインした後も大してすることが無い．近くのセブンイレブンまでスナックを買いにいき，それをかじりながらモーテルの部屋でテレビを見て過ごした．ポップスのビデオクリップ専門の局があって，24時間ビデオクリップばかり流している．さすがはアメリカ，アラスカのような僻地でもこれくらいのサービスは受けられる．夕食は歩いていけるところにあるもう一つのモーテルBest Westernのレストランで済ませた．シーフードのフライか何かで，量はあるのだが，旨くはなかった．アメリカ料理の常である．本来ならば，アラスカ最後の夜だから，ドレスアップして雰囲気のよいレストランで，よく冷えたシャブリでも飲みながらアラスカンキングクラブでも食べたかったのだが，金のない若夫婦には無理な相談である．そんな夢は定年後にでもとっておこう，まだ世界が破滅していなければ．部屋に戻ってシャワーを浴びたりシャンプーしたりしてカトマイの垢を落とした後は，テントを風呂場にかけてできるだけ乾かした．さあもう後は寝るだけ，おやすみ，おやすみ．アラスカ中が雨である．早くフランスに帰ろう．
夜中，U氏とH君はどうしているだろう，今夜のカトマイはまた嵐になるのではないだろうか，と心配になった．

1985年8月10日 (くもり) "Dumpling Mountain"
1985年8月12日 (雨) 「フランスへ」

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